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ユニフォームの話

1994年-弟がまだ小学6年生の頃、当時はまだ地域の子供会ソフトボールが盛んだった。
植田西のその年は当たり年ともいえる選手が揃っている中、野球部にも少年野球にも所属していなかった弟は3番ショートの中心選手として学区で優勝し、天白区大会でも優勝した。

ちょうどその年に植田学区町内対抗親睦ソフトボール大会は始まった。
西町では子供会のソフトボールを指導していた保護者達が中心になって参加したが、優勝した子供たちの勢いとは裏腹に1回戦で惨敗。
あまりにひどい負けっぷりに、審判をしていた須崎会長が「西町は子供と代われー!」と言い放った一言が当時を知る我々家族の語り草になっている。
当時高校1年生だった自分も子供会ソフトのお手伝いをしていた関係で一緒に参加していて、以来25年ずっと植田西の一員として出場し続けている。

私にとって9月の第2日曜日に決まって開催される学区のその大会は1年で一番重要な行事となった。
3年目あたりだったか、年に一度のその行事を楽しみにする私のために父がユニフォームを作ってくれた。
野球などやったことがなかった自分にとっては初めてのユニフォームがとても嬉しく、普段着にして着て歩いていたのを覚えている。
もちろんチーム全員分作ってくれたのだけれど、年に一度のその行事のためにユニフォームを揃えてくる町内会など他になかった。
バッチリお揃いのユニフォームで参加する西町町内会はとにかく弱く、毎年1回戦負けを繰り返した。
弱いだけにお揃いのユニフォームが一層目立つのだけれど、いくら負けようが毎年そのお揃いのユニフォームで試合を出来るのが楽しかった。
受験の年だろうが浪人中だろうが大学の試験の真っ最中だろうが、9月の第2日曜日には大学のある栃木からだって帰ってきた。

それから10年が経つ頃、年に1回とはいえさすがにユニフォームは傷んできて、でもチームは相変わらず1勝も出来ないでいた。
「1勝したら記念にユニフォームを新調しよう」という事になったが、ついに1勝も出来ないままユニフォームに寿命が訪れてしまう。

(初代ユニフォーム)

私が名古屋に戻ってきた年だから今からちょうど10年前に、いつまでも勝てずにいるチームのために父はまたユニフォームを作ってくれた。

(2代目ユニフォーム)
先にユニフォームが新調されたので何としても悲願の1勝を果たそうと結束したおかげか、その年チームは予選リーグで1勝し、進んだ3位決定戦にも勝っていきなり3位になった。
初代ユニフォームでは1勝も出来なかったが、新しいユニフォームの歴史は輝かしいものになる…そんな予感すらしたが、そこからまた暗黒時代に逆戻りしてしまう。
予選全敗の繰り返し…そのうちの何回かは自分のプレーでぶち壊してしまった年もあるけれど、とにかく勝てず。
そんな年が数年続くうちに選手が少しずつ揃ってきて、チームは急に強くなり、前々回大会で突然準優勝。
これまで1勝を目指してきたチームが優勝を目指せるようになり、「目指せ優勝」と口にできるようになった。
10年前に作ったユニフォームもそろそろ傷んできたし…「よし、優勝して新調しよう」そう呼びかけたその年に見事優勝、リーチ・一発・ツモである!
2代目ユニフォームは3位に始まり、暗黒時代を経て準優勝、優勝と輝かしい歴史を共にしてその役目を終え、記念に優勝メンバーのものとなった。

3代目ユニフォーム

次は自分が作ると決めていたけど、優勝してこんな形で作れるなんてこの上ない喜び。
優勝したらやりたい事があった。

優勝記念の星を入れる事。
R1とは当然優勝した令和1年という意味。
また優勝出来たら増やせるようスペースは空けてある。
この3代目ユニフォームにも輝かしい歴史で溢れますように✨

そして…
前々回あたりから父は日曜日仕事なので参加できないでいる。
午後まで進めば出られるのだけれど、今年は特にコロナの影響で午前のみの短縮開催となり参加できない。
色々落ち着けば出られるかもしれないけれど、とりあえず1着は欠番として父へ贈らせてもらった。

今年の町内対抗ソフトが来週に迫った、日曜日のお話でした。